逃げろ! 〜劇場版〜 (その1)
「はい、おにぎり!」

言うが早いか、孝が良美の声に振り向いた時、何かが孝めがけて結構なスピードで向かっていた。右手に握ったスパナは離さず、孝は左手で受け止めた。

「三角おにぎり、また上手く握れなかったんだろう?」

口の隅で笑いながら、孝が茶化す。孝の手の中ではラップにくるまれたおにぎりが、元の形がわからないほど潰れていた。

「うるさいわね。そのうち三角定規みたいの作ってやるから!」

「楽しみにしとくよ」

良美が笑っている事は、声のトーンでわかる。孝も笑いながらワザとぞんざいに返事をし、ラップをめくっておにぎりだったご飯のかたまりをかじる。自分好みの塩っけの多いおにぎりのようなものに気を良くして、バイクの整備を続けた。

1976年製DUCATI 900SS。強制開閉式バルブによるL型ツインエンジンをダイヤモンドフレームに載せてスレンダーなハーフカウルで包み込んだ、芸術の国からやってきたマシン。パンパンと弾ける排気音が、ラテンを匂わせる。孝も良美も、アートと呼べるこのバイクが大好きだった。

それでも街にはクリスマスソングが鳴り響き、良美も買い物へ連れて行けと孝を急かす。かじかんだ指先に工具の冷たさが追い討ちを掛け、傾いた太陽が焦燥をあおる。何とか整備を終え、イルミネーションが昨夜の美しさを取り戻した頃、二人は雑踏の街に包まれていた。


この国に住む人達は、宗教に対して節操がない。
新しい年がやって来たといえば神道に習ってお年玉を配り、彼岸だ盆だと墓参りをし、キリストの聖誕祭までもイベントのひとつと楽しんでしまう。
そんな人ごみの街へ、二人は孝の車で繰り出した。

孝の車には屋根もドアも無い。いや、屋根について言えば元はあったのだが、後ろに大きな羽根を付けた時、孝は屋根を諦めた。
1990年製バーキンスーパーセブン。
二人乗りでトランクスペースはミニマム。おまけに屋根が無いとくれば、900SS同様に利便性や一般的に言われる快適さとは程遠い存在であったが、孝だけじゃなく良美までも、この潔さが好きだった。

700kg弱の車体に日本製エンジンを200PSにまでパワーアップして搭載し、1馬力当たりが担ぐ重量はたったの3.5kg。
俊敏という言葉は、まさにこの車の為にあった。

本来、聖夜を祝うためであったはずのお祭りはものの見事に商材へと姿を変え、プレゼントという名の大量の消費材が飛び交う。ひとときの栄華を楽しむ舞踏会の街で、人が本能的に持つ心理的縄張り空間は弾力のあるバリアとなり、思うままに通りを歩く人達を魔法の杖で游がせる。二人は磁石で牽かれるように時折互いの肘をぶつけながらも、行き交う人の生を楽しんだ。
アーケードの商店街にはそこかしこにクリスマスフラワーが飾られ、小さな赤い葉を見つけては、歌うように良美が喋る。

「ねぇ、見て見て! こんなにキレイだよ。ポインセチアって、お陽様に恋してる花なんだよ」
両腕を広げ、手のひらを重ね、右の頬に当てたまま小首をかしげる。
この世の幸せをありったけ抱き締めてミュージカルを気取る良美に、孝はいつもの笑顔を向けた。



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