逃げろ! 〜劇場版〜 (その13)

夏の太陽の眩しさと天気の気まぐれによって、より深く刻みつけられた1日。花火の余韻に浸る良美が、腕をからませてくる。ゲートに流れる人波の中、孝はそのまま良美の腰を引き寄せ、唇を合わせた。雑踏のノイズは、その時間だけざわめきを止めた。
駐車場では、雨など無かったように佇むFD。赤いボディーを水銀灯が照らし、誰かが蹴とばしたようにくぼんだウエストラインが際立つ。助手席のドアに良美を押しつけ、もう一度互いの唇を味わってから二人は閉園の遊園地を後にした。

駐車場から続く長い渋滞がほぐれ、高速に入る。
「何で高速のスロープって、奥に行くほどきつくなるのかな?」
横Gをバケットシートに預けた良美が言う。
「政治家の頭の中がスムーズじゃないんだよ」
孝が返した。

3速で踏みながら、本線を走る車よりも高い速度にFDを導き、「俺はこっちに行くよ」という合図であるウインカーを点滅させ、右後方を自らの眼で確認して本線に入る。右後ろに映るライトよりも自分が速い事を確認し、走行車線から追い越し車線に移った。
自分の車以外は、動くパイロンだ。明確に行く先を示し、お互いの心理的縄張り空間を侵さないように抜いて行く。ウインカーを出さずに車線変更をする車がいるが、その時々のアクセル、ブレーキ、ステアリングの操作でやり過ごした。

高速バスやトラックを抜く時は、不穏な動きを示すかもしれないデカイ塊を相手にするため180程度に落とすが、高速を走る時、基本的に孝はメーター読みの220を割らない。もちろん空いている時の話だが、「200を超えれば速度取締用のカメラがついて来ない」という昔話の影響だ。
横で良美は眠っている。
常にブースト(ターボの過給圧)を効かせて走っているため、高速を走るFDの燃費は5km/L程度だった。
そして燃料の乏しくなった孝が180km/hほどで流している時、信じられないことが起こった。

パッシング。

『うっそー』
背後からいきなり浴びせられた強烈なライトに驚き、反射的にバックミラーを確認した。赤灯は回っていない。パトカーじゃないと判断した後、残り少ない燃料を気にしながらアクセルを踏み込んだ。

「逃げろ!」心で呟く。

シフトは5速。メゾソプラノからソプラノへと、エンジンは吐息の色を変える。同じ場所でジッと静かに呼吸をしていたスピードメーターが、眠りから目覚めて動き出す。

200km/h。まだ追って来る。
220km/h。エンジン音がまた一段高くなった。

前を走る2台の車を縫うように車線を変え、限界を超える横Gにタイヤが悲鳴をあげる。ハイスピードで鳴くタイヤは、声が低い。一瞬乱れた姿勢をほんの少しの腕の動きで立て直す。後の車はトラックを避け損なってフラついている。
進む先には山が大きな口を開け、車を呑みこむ。オレンジのナトリウム灯の中、光で満たされた灰色の路面にタイヤが金切り音を上げる。トンネルを抜けると漆黒の空と路面。道は下りながら大きく右にカーブし、点在する灯りと車のヘッドライトぐらいでは、行く先がどうなっているのか明確には分からない。ガードレールの曲率と白線とを見ながら、闇に吸いこまれて落ちていく。
不意に、フラットなはずのアスファルトを転がるタイヤのノイズが変化した。ステアリングには細かい振動が伝わる。暗い路面に一体何があったのか、条件反射的に考える。一度溶かしたアイスクリームを固めたような、部分的に荒れた路面。次の瞬間、脳裏に一週間前の冷たい新聞記事が浮かんだ。

 【深夜トラックと接触・オートバイの男性死亡】

『そういえばこの辺りだったよな。確かあの時、バイクが燃えたんだっけ』
背中に微かな寒気を感じながらも、アクセルは離していない。

「俺は大丈夫」

誰もが持つ不確かな自信が、暗闇を照らす細いライトの先を見据えさせた。
そしてエンジンは唸り続け、240km/h。追いかけてくるやつを試すように、ゆっくりとスピードを上げていく。コンマ何秒かの間に水温計と油圧計に目をやり、激しく唸るエンジンに異常が起きていないことを判断する。1秒間に70m近く進むスピードでは、ほんの刹那の時間が宝石ほどに貴重だ。220km/hを越えてからのジリジリと焦げるような緊張が身体を包み込み、路面の継目が作り出す規則的な振動が、さらにそれを煽る。

260km/h。

前走車が途切れ、バックミラーに写る後続のライトが闇に吸い込まれていくのを確認してから、孝はアクセルを緩めた。燃料ランプが点灯している。

「やっちゃったよ。帰るまで保つかなぁ」

隣では、良美が寝息を立てていた。



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