逃げろ! 〜劇場版〜 (その14)

独り言の孝の右側を、赤いBMWが凄い勢いで通り過ぎて行った。
「あいつかよ。事故るなよ」
メーターは140を指している。楽しい気分と淋しい財布の中身を頭の中で照らし合わせ、孝はちょっぴり驚かせてくれた今夜のダンスパートナーを、カーブの向こうに見送った。

暫らく走ると、孝達の住む街の名前がついたサービスエリアの手前で、さっきの赤いBMWを見つけた。まるで誰かを待っているかのように、ゆっくりと流している。
「発見!」
最後に一踏みしてBMWに追いついた孝は、右側から追い越すと鼻先をかすめるようにサービスエリアに飛び込んだ。そして狙い通りに孝の後を追ってサービスエリアに入った<BMWから降りて来たのは、ショートカットのスリムな美人。
あのスピードからパッシングをしてくる大胆さと裏腹な容姿に、孝は思わず見とれてしまった。

「君はいつもあんな運転をしてるのかな?」
後ろ手にドアを閉じてフザけ半分で問い掛ける彼女に、孝は笑顔で返した。
「貴女こそ…」

左手に持つ小さなポシェットをBMWのルーフに置き、おもむろに煙草を取り出す。金色の、細身のガスライターが点す煙草の先がほんの少し震えていたのを、孝は見逃さなかった。ハイスピードの緊張が、指先から零れていた。
彼女が吐き出す最初の煙が空気に溶けた頃、FDの助手席のドアが開いた。

「こんばんは」
急に静かになったFDに目覚めた良美が、後方が弧を描いてせり上がる特徴的なFDのドアを開いて降りてきて、初めて見るBMWの彼女に挨拶をした。
「こんばんは。あれ、彼女乗ってたんだ?」
どうやら物怖じしない性格らしい女性が返す。
「えぇ。この人誰、孝?」
「うん、さっき会った」
「えっ?」

孝はいきなりパッシングを喰らってからの出来事を話した。

「はぁ〜ん、一人で楽しんでたんだぁ。何で起こしてくれないのよ!」
「いやぁ、気持ち良さそうに眠ってたから」
相手が予想もしない美人だっただけに、孝はちょっとバツが悪かった。

彼女はサエコ。
どんな字なのかはナンパっぽくて聞けなかったが、高速のインターチェンジから離れて行く方向に走った隣町に住んでいるらしい。サバサバした口調が良美の波長と合ったらしく、気が付くと缶コーヒーで30分も話し込んでいた。

「そろそろ帰ろうか」
切り出したのは良美だった。
「うん。明日も仕事だし、帰ろうか」
孝が続く。
「じゃあ折角だから、連絡先交換しましょうよ

サエコの言葉に携帯を取り出し、3人は連絡先を交換した。
「じゃあ、またね」
そう言って車に乗り込み、孝はサービスエリアのガソリンスタンドにFDを入れた。脇を通り過ぎるBMWは挨拶代わりにホーンを鳴らし、女性が運転しているとは思えない野太い排気音を轟かせて加速して行った。
「あれ、V8V8気筒エンジン)じゃん!」
独特のエンジン音に孝が驚き、その声に弾かれて良美が繋いだ。
M3?!」
BMWの中でも高性能スポーツカーのジャンルに入るM3という車は、4000ccV8エンジンから、ターボチャージャーなどの過給器無しに400PSを絞り出す。それどころか、軽量化の為に屋根をカーボンファイバーで作ってしまったという拘りのモデルである。
そんな車を、どちらかと言えば華奢なあの容姿で操っていたとは、想像もしなかった。
「屋根、黒かったっけ?」
今更その屋根がカーボンファイバーそのままの黒色であったかどうかを尋ねる孝に、良美は「憶えて無い」としか答えられなかった。

呆気にとられたまま互いの顔を見ていると、ガソリンスタンドの店員が窓ガラスを叩いた。
「いらっしゃいませ。満タンですか」
「あ、はい。ハイオク満タン」
徐(おもむろ)にエンジンを切り、エアコンのスイッチもOFFにする。次にエンジンを始動する時、セルモーターが望む大電流以上の負荷をバッテリーに与えない為だ。最近のコンピューター制御の車ではひょっとすると必要無い作業かもしれないが、始動時にはエアコンやヘッドライトなど不必要な物のスイッチを切っておくのが、孝のやり方だった。

ガソリンがタンクを満たすまでの時間、孝は「自分でやるから」とタオルを借り、フロントガラスにこびりついた一面の虫を拭い取る。良美は室内用のタオルを借り、ガラスの内側を拭く。
内側に付着した細かい埃は朝夕の低い太陽が乱反射するし、車内の湿度が上がると曇りの原因となる。当初「あたしは煙草吸わないから」と内側を拭く必要性に疑問を感じていた良美だったが、拭いてみると意外な程クリアになった視界に気を良くし、今では給油毎に拭いている。しかも人間の眼は横より縦方向のゆがみを認識し難いという生物学的見地から、仕上げは必ず縦方向に拭き上げる。些(いささ)か疲れる作業であるが、セブンのボディーを磨く事に比べれば造作も無かった。

昨夜満タンにしたはずのFDは、70リットルものガソリンを飲み込んだ。ちょっと踏むとすぐ5km/L程度になってしまうが、パワーは燃料と引き替えだ。代償は拒めない。だがパワフルなのにそれだけの燃費を確保している事を思えば、上手く燃調(燃料調整)の取れた車と言えるだろう。

視界をクリアにすると店員に礼を言ってタオルを返し、ガソリンの代金を払ってFDに乗り込んだ。

30分以上放置されていたエンジンは、夏とはいえそれなりに冷えていた。丁寧にシフトアップして3000回転弱で法定速度付近をキープし、各動作部を暖め直す。だが、そうしているうちインターチェンジに着いてしまった。

「もうじきウチだね。ホントに楽しかったわ」
「うん。最後まで楽しかったね」
「何言ってるの。帰ったら、取って置きのデザートがあるわよ」

悪戯っぽく笑い、助手席からウインクと一緒にキスを投げた。



  〜完〜



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