逃げろ! 〜劇場版〜 (その5)

蛇行と急ブレーキを繰り返すフェラーリの不意を衝いて脇をすり抜け、孝は3速、4速とシフトアップしていく。乾いた空気と低い気温に合わせて先週末再調整したばかりのキャブレターは、エンジンが欲しがるだけの混合気を送り、高みへと淀み無く誘う。出遅れた相手との差は拡がっていった。
高速道路が走る高架の下にある国道は、片側4車線。前走車を右に左に掻き分けながら、高架の上より速い2台が走り抜ける。
「ケーキのドライアイス、何時間分だっけ?」
冷静な孝は、このフェラーリとどの位遊んでいられるのかを気に掛けた。
1時間でお願いしたよ」
OK

次はメーター類に目を遣る。

燃料 3/4
水温 70
油温 65
油圧 最高約5kg/cm2
異音 無し

アナログ式のメーターが、直感的に情報をくれる。今夜出会ったこのフェラーリが一体どれだけ楽しませくれるのか、孝は口角が上がるのを隠しきれなかった。
「やっぱり楽しんでるでしょ?」
悪戯っぽく響く声が隣から聞こえて、良美の笑った顔が浮かぶ。
後ろの車から聞こえてくる粗いアクセルワークやタイヤの鳴き声とは対称的に、セブンの助手席はG変化が少ない。それでも視界に入る前走車は、次々とセブンの後ろに飛んで行く。
超巨大パノラマスクリーンとスーパーサラウンドで観る、3Dアクションムービー。良美は特等席に居た。

3つ先の信号が赤に変わったのを確認し、ゆっくりと右に寄せる。2つ先が黄色に変わった。右折車無し。
フェラーリは空力の優位性(空気抵抗が少ない事)を活かし、高速域に入ってから間を詰めてきている。タイミングを見計らって素早く一番右の車線に移動し、ブレーキを踏んだ。フェラーリが左に並んで行き過ぎかけるが、極太のタイヤとブレンボの強力なブレーキが1トンを超える車体を押さえ込む。信号はドンピシャで右折の矢印。右にステアリングを切りながら遅めにブレーキをリリースしていき、孝はわざとリアタイヤを滑らせる。スピンモードに入りかけるセブンは、遠心力と慣性の法則をタイヤの摩擦力でバランスさせ、孝が頭で描いたカーブの頂点をかすめる。
バックミラーの中のフェラーリは、派手なスキール音(タイヤの鳴く音)をたてて真横を向きながらも、何とか車線に踏み留まっていた。
「そう来なくっちゃ」
楽しげに呟く孝に、良美は孝の中の少年を楽しんでいた。

右折した先の道路は片側2車線しかないが、中央分離帯が無かった。その代わりに、キャッツアイと呼ばれる反射板が埋め込まれていて、負荷の掛かったタイヤで踏んでしまうとタイヤがバースト(破裂)する可能性がある。交差点の中央にも埋め込まれているので注意が必要だ。
信号は青が続いているが、前走車が並列して走っている事と対向車がいない事から、フェラーリに次のルートを教えるように、早めにウインカーを出して右折する事にした。
排気音は高々と響くが、相手はさっきのハーフスピンの遅れをまだ取り戻せていない。
孝はもう一度遊んでみる事にした。

右車線の一番左、白線ギリギリからブレーキングを始める。ブレーキング終盤でステアリングを切り始めるが、今度はブレーキを離すタイミングを早く、ペダルを完全に離すまでの時間も短くする。ブレーキングによって地面に押さえつけられていた前輪が、ブレーキをリリースする事によって接地力を失いかける。追い打ちをかけるようにステアリング操作で発生した横Gがタイヤのグリップ力を超え、横Gに負けてフロントとリアのタイヤが流れ出すと、ステアリングは中央に戻した。アクセルは加速も減速もしないパーシャルのままコーナーの頂点であるクリッピングポイントまで進み、摩擦抵抗によって減速する分だけアクセルを数mm単位で踏み足す。横断歩道の白線がセブンのフロントとリアの滑り量をバラバラにするが、孝はステアリングをまっすぐに保ったままコーナーを抜けた。

目の前にはまた、片側4車線の道。
背中に聞こえていた高周波は、さらに遠くなった。



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