逃げろ! 〜劇場版〜 (その9)

北を目指して進んで行くと、道幅は片側3車線から2車線、そして1車線へと次第に狭くなり、信号の間隔も開いて道は曲がりくねってくる。ビルや店舗は無くなり、無理矢理形状を変えられていた小川がありのままの姿を現す。夏になれば草の香りが空気を満たし、呼吸するたび身体の中に自然が入り込む感覚に包まれるが、ただ、ガードレールの向こうで伸び切った草がコーナーの先を見えにくくしてしまう事を思えば、今の季節の方が安全に走れる。
山間部に入り対向車が居なくなると、それぞれが思い思いのペースで走り始めた。

いち早くアクセルを大きく開けたのは、刀に乗る信夫。続いて孝と良美がスピードを解放した。
インラインフォー(直列4気筒)の連続する排気音に1気筒ずつの爆発が聞こえるLツイン(L2気筒)の音が挟まれ、群れを離れて流れて行く。
何度か来たことのある道なのでルートは憶えているが、11つのコーナーの大きさまで憶えている訳では無い。見えないコーナーの先はガードレールの曲がり具合から推測して入口のスピードを決め、カーブミラーに写る景色で対向車の有無を判断して走行ラインを決める。
勿論あらかじめ見通しのきく時にいくつも先の状況を確認してはいるが、突然道を横切るハイカーや停止車輌が現れたり、砂やオイルが浮いたりしている事も想定し、いつでも進路を変更出来るだけの十分なマージンを持つことが、自分や仲間そして見ず知らずの誰かを傷付けない事と直接結び付いていることを、孝達は知っていた。

しかし、それでもスピードを求めるのはバイク乗りの性だ。

見通しの良いコーナーではギリギリまでバンクさせ、自然が支配する物理的限界とのバランスを楽しむ。
尻を浮かせて外側の膝でバイクを押さえ込み、進みたい方向にコーナー内側の膝を突き出す。重い刀に乗る信夫はそれでも足りず、肘でタンクを押さえてバイクを抱くように走る。遠心力に負けて外側に流れるタイヤが意地を見せて路面にかじりつき、前に進める力がフロントタイヤをフラフラと宙に運ぶ。この重量級のマシンのドリフトしながらのウイリーは、いつ見ても圧巻だ。
孝のドカは11発が蹴り出すようにマシンを進め、信夫の刀を後ろからつつく。コーナーからの立ち上がりでは、フロントタイヤをゆっくりと地面に戻しながら加速する刀を、速いコーナーリングスピードからバイクを起こしながら加速するドカが刀に並びかけるが、次の切り返しで外側になるため内側の刀に先を譲る。ドカに外側を押さえられた刀のステップは既に地面に張り付き、それ以上倒し込むことを許さない。信夫は苦しいラインからドリフトに持ち込んでバイクを進行方向に無理やり曲げ、足りないバンク角をカバーする。孝の追撃に信夫の刀は全身を震わせながらコーナーを立ち上がり、緊張が周囲の安全確認を怠らせた。

右ブラインドコーナーから、センターラインをはみ出した大型バスが現れたのだ。

一瞬早くカーブミラーに映る動くモノに気付いた孝は減速し、コーナーリングラインの自由度を確保する。信夫の危機を目の当たりにして、孝は心臓が喉につかえるのを感じたが、その心臓を吹き飛ばす勢いで叫んだ。

「逃げろ! 信夫!」

余裕の無くなった信夫がアクセルを戻してフロントタイヤに荷重を移す。コーナーの外に逃げながら、首も精一杯外に曲げる。はみ出してきたバスは急ハンドルでコーナー内側に逃げるが、遠心力でロールした車体は思うほど遠くならない。だがなんとかギリギリのところで、信夫はバスをやり過ごした。

「ヤバかったな」
バイクをパーキングに停めて座り込んだ信夫に、煙草を差し出しながら孝が言った。
「あぁ。首持って行かれるかと思った」
煙草を受け取る信夫の指先が震えていた。
そのまま火を点けようとするが、唇はまださっきの恐怖に囚われたまま。上手くライターの火を捉えられない。やっと火を点けて煙を吐き出した時、「生きてて良かった」と胸につかえていた安堵の言葉も共に零れた。
「帰りはゆっくりな。もう、今日は良いや」
珍しくエキサイトしてしまった事を後悔する信夫の苦笑いに、孝も苦笑いだけ返した。

丁度1本吸い終わった頃、良美が到着した。「さっきの出来事は良美に内緒だ」お互いに目配せし、良美に笑顔を向けた。

「やっぱり付いて行けないね」
ヘルメットを脱ぎ、首を振って髪をほどいた良美は、何も知らない明るい声で話しかけた。
「いいよ、良美は良美のペースで来れば」
上っ面は笑っていたが、いつの間にか仲間をおいてきぼりにする程速くなった良美を見て、孝の中では嬉しさと不安が綯い混ぜになっていた。

ある程度の速度域まではスピードと安全性は無関係だが、個人に依存する閾値を越えると、スピードの危険性は二次曲線を描いて急上昇する。その原因は動体視力や心理的閉塞感など様々であるが、孝逹の閾値が制限速度を遥かに越えた所にあるのは明らかだった。
裏返せばそれは、自然の法則が支配する物理的限界までの絶対的な余裕代が少ない事と等しく、生まれながらに持つ身体的能力の内の幾らかと、訓練とも呼べる繰り返しによって、所謂“経験値”や“危機回避能力”を培う事でしか、その狭い余裕代の中で機械をコントロールするための技術を身に付ける方法は無い。
田舎育ちの孝は親や祖父母の理解にも助けられ、小学生の頃から運転という行為に親しんでいたが、どれだけ繰り返しても理想は遠くへ逃げて行く。
峠どころか、思い切り走れるはずのサーキットでさえも、飢餓感にも似た完璧さへの欲求は募った。

「良美、カーブミラー見てた? 見通しのきくトコでは対向車確認した?」
不安が喉を通って空気を伝う。これが街中だったなら、トラックやバスの足元は見たかとか、乗用車のガラスを通したその向こうは見たかとか、矢継ぎ早に聞いたに違いない。尋ねる言葉に「やってるよ。もう、面倒臭いなぁ」と良美が一時膨れっ面になったとしても、愛しい人が傷を負ったり思い出の中でしか会えなくなったりする事を思えば、蚊に刺されるより些細な事だ。
良美の笑顔だけは、永遠に守りたかった。

「何よ。どうしたの? 何かあった?」
いつもと違う孝の表情に違和感を覚えた良美が聞いた。
「うん、さっきね」
今日のこの日を楽しい気分で終らせようとした信夫との目配せを、孝の愛情が裏切った。
目の前で起きた一切を話そうとした時複数のバイクの排気音が響き、後続のヤマさん達が到着した。



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